2019年02月07日

 東京遷都は消えた?

首都機能の移転が以前新聞をにぎわせていた。
やれ福島だの、中部だの忙しかった。
東北へ行くのはいやだな、名古屋は馴染みがないし
なんて当時はもう十年以内に国会議事堂が移るのかと思った。
ところが最近はだれも言わない
一方東京の一極集中はますます進む
大阪本社では商売にならないらしい
日本の地図を良く見て見た。
野球のキャッチャーミットのような形をしている
球を受ける中心が「東京」である。
徳川家康も草原の湿原を良く埋め立てたものである。
東京以上の後背地を持った平野は見つからない。
今日越後は氷雨、東京は半袖の15度
家康さんは良い所を選んだものである
「鬼平犯科帳」「剣客商売」「山本周五郎 人情武士道」
「人情おけら長屋」どれを読んでも生き生きとした
下町描写がある。
江戸以外ではこの物語がなりたたない。田舎ではダメなのである。
今も「渋谷、青山、原宿」なしでは日本文化は語れない
京都木屋町ではダメなのである、
京都から東京へ遷都した時に日本の歴史が決まった
アメ公が東京大空襲をして焼野原にしても
それ以上に復活した。
不死身の東京よ
「本所おけら長屋」を書く為には三百年の伝統が
必要なのだ。
だから再遷都は無理
みんなの心の安定のために東京一極集中は進むのだ。
役人よ 国会議員よ お前だけ福島へ行け
私は死ぬまでに「門前仲町」に引っ越す
もう雪はたくさんだ。一極集中だ
 それか新幹線付の「軽井沢 プリンス通」だ もちろん二十三のエリカちゃんと一緒
 一時間で八重洲ブックセンター 
 
(越後じじい おわり)
posted by 花蓮 at 18:19| Comment(0) | 日記

2019年01月31日

 学ランとアイビーとワイルドワンズ

昔はあって今はないもの 大学生の学生服
昭和四十年には立教の1割に学ランは残っていた
「痰壺をストローですする」と言う冗談を飛ばしていたのは
千葉高校出身のN君だ、VAN全盛の立教にあって
蔦の絡まる本館の道を下駄と学ラン姿で千葉から通っていた
主に立教高校から無試験で来たやつらは紺のカーデガンに
三十センチもあるR文字を縫い付けて細いなんとか言うズボンを履いて
スリッポンの靴といういでたちだった。
もちろん越後の田舎者にはどこでそろえればいいかも知らなかった。
田舎の味方だと思っていた山形西高校のK子は四月からタバコを吸って
立教人の仲間入りをしていた。
過去のブログにも書いたが田舎丸出しのオイラはクリスマスの
お祝いに福井の田舎者と一緒に「赤玉ポートワイン」という
砂糖水みたいなワインを練馬で買って炬燵にに入って待っていた。
福井もオイラも女体というものを知らなかった
たぶん当時は田舎の高校生では当たり前だった。
同じクラブで横浜出身のY君がいた
浜の匂いでなくオイラと同じ田んぼのの匂い
彼は法学部であったが同級生に「ワイルドワンズ」の
T君がいた。
学校のメインストリートでテレビで見た通りの
目の大きいT君を紹介してくれた
もちろんアイビールック
千葉高もオイラも下駄に学ラン
でも経済学部は一番偏差値が高いなどと
つまらない自慢で満足していた
それから四年間彼等も全盛
オイラも女を求めていそがしかった。
ただ因縁霊のたたりでいまもって女房には縁が
無い。 たたりだ〜〜

posted by 花蓮 at 04:38| Comment(0) | 日記

2019年01月29日

省線電車と たんつぼ

「昔はあって今は無いもの」こんなテーマで先回から書き始めた。
省線電車」 この名がここ一ヶ月鳴り響く
といって格別鉄道おたくではない。
 昭和三十年ごろ越後から六時間かけて蒸気機関車で
上野についた。
母は「次は省線だよ」と言って階段を登って省線のホームに行った。
この時確かに「しょうせん」と言った。
戦後鉄道省は陸軍省とともに無くなったはず。
だから「省」の電車から「国有鉄道」になった
国鉄と呼ぶべきだろうが母はもちろん小学生のわたしには
分るはずもない。
戦後しばらくは「しょうせん」と言っていたのだろう
その姿はいまでも覚えている あずき色であばたのの様な
ボツボツした鉄鋲の痕、かんだかいモーター音。
余談だが大学の四年頃まで(昭和四十四年)池袋の駅ホームには
白い”痰壺”たんつぼ(たんを吐くいれもの)があった。
ハルピンに行くと道は痰だらけ、中国人は30分に一回は痰を吐く
「汚い 吐くなよ」と中国人の友人に言った事がある
良く考えると四十年ごろは日本人も吐いていたに違いない。
今はないもの=痰壺。

学生時代 池袋西口線路の端「養老の滝」でいつも言った冗談
「お前 駅のたんつぼ ストローで吸ってこい」
(続く)





posted by 花蓮 at 09:51| Comment(0) | 日記