2019年01月29日

省線電車と たんつぼ

「昔はあって今は無いもの」こんなテーマで先回から書き始めた。
省線電車」 この名がここ一ヶ月鳴り響く
といって格別鉄道おたくではない。
 昭和三十年ごろ越後から六時間かけて蒸気機関車で
上野についた。
母は「次は省線だよ」と言って階段を登って省線のホームに行った。
この時確かに「しょうせん」と言った。
戦後鉄道省は陸軍省とともに無くなったはず。
だから「省」の電車から「国有鉄道」になった
国鉄と呼ぶべきだろうが母はもちろん小学生のわたしには
分るはずもない。
戦後しばらくは「しょうせん」と言っていたのだろう
その姿はいまでも覚えている あずき色であばたのの様な
ボツボツした鉄鋲の痕、かんだかいモーター音。
余談だが大学の四年頃まで(昭和四十四年)池袋の駅ホームには
白い”痰壺”たんつぼ(たんを吐くいれもの)があった。
ハルピンに行くと道は痰だらけ、中国人は30分に一回は痰を吐く
「汚い 吐くなよ」と中国人の友人に言った事がある
良く考えると四十年ごろは日本人も吐いていたに違いない。
今はないもの=痰壺。

学生時代 池袋西口線路の端「養老の滝」でいつも言った冗談
「お前 駅のたんつぼ ストローで吸ってこい」
(続く)





posted by 花蓮 at 09:51| Comment(0) | 日記

2019年01月25日

 武蔵野原を 帆かけ船がゆく

私は戦後22年生まれ、そのころあって今は無いものが増えてきた。
此の世のなごりに、このブログに記しておこうと思う。
次のブログには「省線(しょうせん)」という言葉。
きょうは「川舟」について
 鬼平犯科帳の朗読を聞いていたら
川越 川舟が出てきた
川越は小江戸と呼ばれ商家や倉、火の見やぐらが残り
情緒を漂わせている。
江戸から三十キロとても近く防衛拠点なので
親藩が城主に任命された。 松平信綱、老中が城主である。
荒川と並行して流れる新川岸川に江戸と結ぶ船便が開設された。
江戸時代の陸路はひどいものだった。
たとえば東海道ののような大幹線でも荷車の通行は出来なかった
米味噌塩などの重量物は「舟」で運ぶしかなかった。
昭和に入ってさえ町を出るとすぐ舗装は切れてもうもうたる砂ほこりが
窓から入って来た。
わずか三十年でもうこの記憶がみんなの頭から消えている。
当時青年だった「団塊世代」、みんなで忘れていいんだろうか
私が追っかけている四十女、彼女でさえ砂利道の記憶はない。
ことさら昔は川には船があって、私の叔父は五歳のとき
裏の川に落ちて死んだ。
もうその子の事を話す じじ、ババもすべて死んだ
川は埋め立てられてバイパスになっている
   ”もうだれも知らない”
たった戦後の話なのに
川越 船に話を戻そう
寛永十六年 江戸まで帆かけ船が走っていた
今の川より深くて広かった
浅草観音の隅田川が終点だった
墨田川は堤防もなくもっと人びとの身近にあった
明治の唱歌を聞けば判るだろう。
〜♪ 春のうららの隅田川 のぼり下りの船人が〜
 櫂のしずくも花と散る〜〜♪
武蔵野の麦畑に突然 帆が見える!!
こんな不思議な光景が百年まえまであった。

 立教応援歌
〜立教健児の精鋭が 武蔵野原を ♪〜
 明治の早稲田
〜都の西北 早稲田の  に〜
練馬の下宿の廻りには 雑木林と麦畑があった
ついこのまえである。
 昨日デイセンターで大正女がニコッと笑いかけてきた。 ぞっとした
 昨日総合病院の受付で平成女が一年ぶりに笑いかけてきた。可愛かった
 俺は昭和だ もうじき終わる だけど大正じゃない

  (終わり)
posted by 花蓮 at 06:54| Comment(0) | 日記

2019年01月19日

 八重洲 (2)

私ら世代にとって八重洲といえば「ブックセンター」でしょう
山一を辞めてから上京すると、地上から出て右へ、広場の向うに
山一の本店ビルが見えた
横断歩道を渡ってセンターに入る。今日はどんな本に出会えるだろうか
やはり田舎者の私には丸の内の洒落たレストランは気おくれする。
本屋はどんなに難しくても古女房の家だ
角の口からから入るとホッとする。
ふっと江渡時代にスリップする
和田蔵門を出て外堀をこえてしばらく行くと松林
その先は江戸湾の波がひたひたと寄せる。
左手にはには佃の埋め立て地と海苔の養殖の杭が林立する
百年後には松林には赤レンガの東京駅がもう百年ごには
砂浜の地下には世界一の「八重洲地下街」が出来ていた
本を選び終えると 地下街のはずれいつものガランとした
レストランでカレー。
後は六時の朱鷺号で雪国に帰る。八重洲の旅終わり
posted by 花蓮 at 07:20| Comment(0) | 日記