2019年01月25日

 武蔵野原を 帆かけ船がゆく

私は戦後22年生まれ、そのころあって今は無いものが増えてきた。
此の世のなごりに、このブログに記しておこうと思う。
次のブログには「省線(しょうせん)」という言葉。
きょうは「川舟」について
 鬼平犯科帳の朗読を聞いていたら
川越 川舟が出てきた
川越は小江戸と呼ばれ商家や倉、火の見やぐらが残り
情緒を漂わせている。
江戸から三十キロとても近く防衛拠点なので
親藩が城主に任命された。 松平信綱、老中が城主である。
荒川と並行して流れる新川岸川に江戸と結ぶ船便が開設された。
江戸時代の陸路はひどいものだった。
たとえば東海道ののような大幹線でも荷車の通行は出来なかった
米味噌塩などの重量物は「舟」で運ぶしかなかった。
昭和に入ってさえ町を出るとすぐ舗装は切れてもうもうたる砂ほこりが
窓から入って来た。
わずか三十年でもうこの記憶がみんなの頭から消えている。
当時青年だった「団塊世代」、みんなで忘れていいんだろうか
私が追っかけている四十女、彼女でさえ砂利道の記憶はない。
ことさら昔は川には船があって、私の叔父は五歳のとき
裏の川に落ちて死んだ。
もうその子の事を話す じじ、ババもすべて死んだ
川は埋め立てられてバイパスになっている
   ”もうだれも知らない”
たった戦後の話なのに
川越 船に話を戻そう
寛永十六年 江戸まで帆かけ船が走っていた
今の川より深くて広かった
浅草観音の隅田川が終点だった
墨田川は堤防もなくもっと人びとの身近にあった
明治の唱歌を聞けば判るだろう。
〜♪ 春のうららの隅田川 のぼり下りの船人が〜
 櫂のしずくも花と散る〜〜♪
武蔵野の麦畑に突然 帆が見える!!
こんな不思議な光景が百年まえまであった。

 立教応援歌
〜立教健児の精鋭が 武蔵野原を ♪〜
 明治の早稲田
〜都の西北 早稲田の  に〜
練馬の下宿の廻りには 雑木林と麦畑があった
ついこのまえである。
 昨日デイセンターで大正女がニコッと笑いかけてきた。 ぞっとした
 昨日総合病院の受付で平成女が一年ぶりに笑いかけてきた。可愛かった
 俺は昭和だ もうじき終わる だけど大正じゃない

  (終わり)
posted by 花蓮 at 06:54| Comment(0) | 日記
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