2018年08月31日

 京成お化け煙突 (2)

お化け煙突の事を書いたら京成沿線の昭和三十年代の事を
書きたくなった。 まだ団塊の世代はいきているだろう
クラスで死んだ奴も十人を越えた。
名前を思い出せない、上野から直ぐの所に遊園地があった
何という駅名だろう、一度も降りた事もなくその気も無いが
変わった駅名だった、御存じの方も多いだろう
次は堀切菖蒲園、チューブで特集をやっていたのでPCの中で
途中下車、ラーメン、レバニラ炒め、半ちゃんライス、学生時代
よくたべたものばかり。新潟の田舎にはこんなものが無い
死ぬまでに堀切菖蒲園で下車して行ってみたいものだ。
次は谷津遊園 こどもの頃はまだ埋め立てもなく遠浅の浜が
広がっていた、祖父と潮干狩りに行った
ただ工場廃液が広がり茶色い海だった、
小学生の私は何の疑問ももたず
排液交じりの酸っぱい海水を飲んだ。
遊園というからきっと遊園地があったのだろうが
記憶にない。いまはかいすいよくの浜とも知らない人
ばかりだろう、
成田のひとつ手前が「そうごうさんどう」漢字が書けない
左倉惣五郎これが正しいか分らない
新潟地方では無名
江戸時代に幕府に直訴した人くらいにしかしらない
多分その人の神社の「参道」ではないかと思っている
いまは成田が飛行場で有名だが
三十年年代は上野から着くと京成成田は寂しい駅だった
さらに国鉄成田駅は北海道の田舎のように
小学生の心に新潟恋しと感情をかきたてた
成田で唯一賑やかなのは新勝寺だった。
祖父は生活力があったのだとおもう、
敗戦前は朝鮮の「木浦」(もっぽ)で警察官だった
引き揚げてきて 成田山でしがない写真屋をしていた。
が 子供心に決して意気消沈はしていなかった。
本堂の裏に奥山と呼ばれる十万坪もある公園があった。
当時観光が少ない日本に参拝客の数千人は公園に来た
子供心に結構忙しそうに見えた。


posted by 花蓮 at 08:19| Comment(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: