2018年07月09日

乃木坂と乃木大将

水師営の会見の後、乃木将軍の第三軍は奉天へ急いだ
それは奉天でロシア30万と対峙していた日本軍は
負けそうだったからである。
<奉天は二次大戦ご瀋陽と名前が変って
東北三省(遼寧省、吉林、黒竜江)の日本総領事館が
瀋陽に置かれたため、わたしは10回も行った。>
満洲平原にポツンとできた街にロシアは重厚な砲兵陣地
を敷いて日本軍を待ち構えていた
一番遅く着いた乃木第三軍は一番左の左翼に陣取った
大連・旅順から二日で歩いてくるという強行軍であった
旅順で機関銃を浴びて兵は疲弊していた。
それでも乃木将軍は奉天へと急いだ。
おまけにロシア軍の最右翼は最強のコサック騎兵兵団であった。
どこまでも死ぬようにできていた。
乃木神社は乃木将軍の屋敷跡だ
明治大帝の崩御は輝ける時代の終わりを告げた。
大葬の当日 乃木夫妻は自刃した
いくら明治でも殉死は衝撃を与えた
森鴎外はこれを題材に熊本藩の史実「阿倍一族」を書いた。
乃木将軍配下に秋山好古少佐がいた
彼は日本海海戦の名参謀 「秋山真之」の兄
この「好古少佐」の行動は日本軍の運命を変えた
コサック騎兵隊のさらに左を大迂回をしてロシア軍の後方の
鉄嶺駅あたりに出て放火した。
いまでも瀋陽(奉天)の次の駅は鉄嶺である
車窓から鉄嶺駅をみながら 私は奉天会戦の場面を想像していた。
近代陸軍65万の対戦はこれ以降ない
明治の頃は天佑が働いた
ロシア軍総司令官クロパトキンはびっくりした
「背後に日本軍がまわったと勘違いした」
せっかく圧倒していたロシア軍に退却命令
満洲鉄道沿いにハルピンめざして一目散
大砲も置いていくあわてぶり
追撃戦にうつればロシア軍を壊滅できたのに
日本軍にはもう銃弾がなかったのである
奉天城に日章旗を掲げ戦勝式」
これで乃木坂と乃木将軍はおしまい。


posted by 花蓮 at 11:09| Comment(0) | 日記
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