2019年01月31日

 学ランとアイビーとワイルドワンズ

昔はあって今はないもの 大学生の学生服
昭和四十年には立教の1割に学ランは残っていた
「痰壺をストローですする」と言う冗談を飛ばしていたのは
千葉高校出身のN君だ、VAN全盛の立教にあって
蔦の絡まる本館の道を下駄と学ラン姿で千葉から通っていた
主に立教高校から無試験で来たやつらは紺のカーデガンに
三十センチもあるR文字を縫い付けて細いなんとか言うズボンを履いて
スリッポンの靴といういでたちだった。
もちろん越後の田舎者にはどこでそろえればいいかも知らなかった。
田舎の味方だと思っていた山形西高校のK子は四月からタバコを吸って
立教人の仲間入りをしていた。
過去のブログにも書いたが田舎丸出しのオイラはクリスマスの
お祝いに福井の田舎者と一緒に「赤玉ポートワイン」という
砂糖水みたいなワインを練馬で買って炬燵にに入って待っていた。
福井もオイラも女体というものを知らなかった
たぶん当時は田舎の高校生では当たり前だった。
同じクラブで横浜出身のY君がいた
浜の匂いでなくオイラと同じ田んぼのの匂い
彼は法学部であったが同級生に「ワイルドワンズ」の
T君がいた。
学校のメインストリートでテレビで見た通りの
目の大きいT君を紹介してくれた
もちろんアイビールック
千葉高もオイラも下駄に学ラン
でも経済学部は一番偏差値が高いなどと
つまらない自慢で満足していた
それから四年間彼等も全盛
オイラも女を求めていそがしかった。
ただ因縁霊のたたりでいまもって女房には縁が
無い。 たたりだ〜〜

posted by 花蓮 at 04:38| Comment(0) | 日記

2019年01月29日

省線電車と たんつぼ

「昔はあって今は無いもの」こんなテーマで先回から書き始めた。
省線電車」 この名がここ一ヶ月鳴り響く
といって格別鉄道おたくではない。
 昭和三十年ごろ越後から六時間かけて蒸気機関車で
上野についた。
母は「次は省線だよ」と言って階段を登って省線のホームに行った。
この時確かに「しょうせん」と言った。
戦後鉄道省は陸軍省とともに無くなったはず。
だから「省」の電車から「国有鉄道」になった
国鉄と呼ぶべきだろうが母はもちろん小学生のわたしには
分るはずもない。
戦後しばらくは「しょうせん」と言っていたのだろう
その姿はいまでも覚えている あずき色であばたのの様な
ボツボツした鉄鋲の痕、かんだかいモーター音。
余談だが大学の四年頃まで(昭和四十四年)池袋の駅ホームには
白い”痰壺”たんつぼ(たんを吐くいれもの)があった。
ハルピンに行くと道は痰だらけ、中国人は30分に一回は痰を吐く
「汚い 吐くなよ」と中国人の友人に言った事がある
良く考えると四十年ごろは日本人も吐いていたに違いない。
今はないもの=痰壺。

学生時代 池袋西口線路の端「養老の滝」でいつも言った冗談
「お前 駅のたんつぼ ストローで吸ってこい」
(続く)





posted by 花蓮 at 09:51| Comment(0) | 日記

2019年01月25日

 武蔵野原を 帆かけ船がゆく

私は戦後22年生まれ、そのころあって今は無いものが増えてきた。
此の世のなごりに、このブログに記しておこうと思う。
次のブログには「省線(しょうせん)」という言葉。
きょうは「川舟」について
 鬼平犯科帳の朗読を聞いていたら
川越 川舟が出てきた
川越は小江戸と呼ばれ商家や倉、火の見やぐらが残り
情緒を漂わせている。
江戸から三十キロとても近く防衛拠点なので
親藩が城主に任命された。 松平信綱、老中が城主である。
荒川と並行して流れる新川岸川に江戸と結ぶ船便が開設された。
江戸時代の陸路はひどいものだった。
たとえば東海道ののような大幹線でも荷車の通行は出来なかった
米味噌塩などの重量物は「舟」で運ぶしかなかった。
昭和に入ってさえ町を出るとすぐ舗装は切れてもうもうたる砂ほこりが
窓から入って来た。
わずか三十年でもうこの記憶がみんなの頭から消えている。
当時青年だった「団塊世代」、みんなで忘れていいんだろうか
私が追っかけている四十女、彼女でさえ砂利道の記憶はない。
ことさら昔は川には船があって、私の叔父は五歳のとき
裏の川に落ちて死んだ。
もうその子の事を話す じじ、ババもすべて死んだ
川は埋め立てられてバイパスになっている
   ”もうだれも知らない”
たった戦後の話なのに
川越 船に話を戻そう
寛永十六年 江戸まで帆かけ船が走っていた
今の川より深くて広かった
浅草観音の隅田川が終点だった
墨田川は堤防もなくもっと人びとの身近にあった
明治の唱歌を聞けば判るだろう。
〜♪ 春のうららの隅田川 のぼり下りの船人が〜
 櫂のしずくも花と散る〜〜♪
武蔵野の麦畑に突然 帆が見える!!
こんな不思議な光景が百年まえまであった。

 立教応援歌
〜立教健児の精鋭が 武蔵野原を ♪〜
 明治の早稲田
〜都の西北 早稲田の  に〜
練馬の下宿の廻りには 雑木林と麦畑があった
ついこのまえである。
 昨日デイセンターで大正女がニコッと笑いかけてきた。 ぞっとした
 昨日総合病院の受付で平成女が一年ぶりに笑いかけてきた。可愛かった
 俺は昭和だ もうじき終わる だけど大正じゃない

  (終わり)
posted by 花蓮 at 06:54| Comment(0) | 日記