2018年08月31日

 目の玉まで日焼け

彼女は二十三歳 はなすじの通った新潟美人
ただ残念なのは肌が地黒な点だ
八月上旬 彼女は川崎のコンサートに行った
黒い肌がさらに、そのうえ目の玉まで日焼けして
帰ってきた。
何か変わった、”そうだ 目の玉まで 日焼け!”
私は叫んだ
目がつり上がっている
最後の日曜日 彼女は所沢へバスで行った
恐ろしいので”だれと一緒?”とは聞かない 彼女は二十三歳なのだ
ゴールデンボンバー、スキマスイッチ、がでると言う
その前の土曜は地元エコスタでワニキー
何の事やら分らない
「目の玉まで焼くなよ」
「大丈夫 屋根があるから」
今度は川崎ほどひどくなかった
彼女は病院で訪問リハビリをしていて私 ジジイの担当
”もし あなたが好き”
と言ったらどうしよう 何 寝言みたいな夢想をしてるんだ
先日 鎌倉みやげのゼリーをあげたら 「もったいないから
まだ食べてないの」 なんて胸がしめつけられるような可愛いこという
さて秋だ 
大学時代高原のロッジで出会った女は東京へ帰ったとたん 知らない顔をした
枯れ葉と共に何度も失恋した。 


posted by 花蓮 at 13:20| Comment(0) | 日記

 京成お化け煙突 (2)

お化け煙突の事を書いたら京成沿線の昭和三十年代の事を
書きたくなった。 まだ団塊の世代はいきているだろう
クラスで死んだ奴も十人を越えた。
名前を思い出せない、上野から直ぐの所に遊園地があった
何という駅名だろう、一度も降りた事もなくその気も無いが
変わった駅名だった、御存じの方も多いだろう
次は堀切菖蒲園、チューブで特集をやっていたのでPCの中で
途中下車、ラーメン、レバニラ炒め、半ちゃんライス、学生時代
よくたべたものばかり。新潟の田舎にはこんなものが無い
死ぬまでに堀切菖蒲園で下車して行ってみたいものだ。
次は谷津遊園 こどもの頃はまだ埋め立てもなく遠浅の浜が
広がっていた、祖父と潮干狩りに行った
ただ工場廃液が広がり茶色い海だった、
小学生の私は何の疑問ももたず
排液交じりの酸っぱい海水を飲んだ。
遊園というからきっと遊園地があったのだろうが
記憶にない。いまはかいすいよくの浜とも知らない人
ばかりだろう、
成田のひとつ手前が「そうごうさんどう」漢字が書けない
左倉惣五郎これが正しいか分らない
新潟地方では無名
江戸時代に幕府に直訴した人くらいにしかしらない
多分その人の神社の「参道」ではないかと思っている
いまは成田が飛行場で有名だが
三十年年代は上野から着くと京成成田は寂しい駅だった
さらに国鉄成田駅は北海道の田舎のように
小学生の心に新潟恋しと感情をかきたてた
成田で唯一賑やかなのは新勝寺だった。
祖父は生活力があったのだとおもう、
敗戦前は朝鮮の「木浦」(もっぽ)で警察官だった
引き揚げてきて 成田山でしがない写真屋をしていた。
が 子供心に決して意気消沈はしていなかった。
本堂の裏に奥山と呼ばれる十万坪もある公園があった。
当時観光が少ない日本に参拝客の数千人は公園に来た
子供心に結構忙しそうに見えた。


posted by 花蓮 at 08:19| Comment(0) | 日記

2018年08月30日

 京成おばけ煙突と戦災孤児

今朝2時ころ深夜放送を見た
上野駅の地下道に浮浪者、戦災孤児がいた
私の祖父が成田市にすんでいたので昭和二十年代
冬休み。夏、には京成上野から成田に行った。
西郷さんの地下で乗って日暮里の崖から地上に出る
足立区の高架を京成は走った
四本の煙突が見えてくる 祖父は[あの煙突は一本になるぞ」と言った
やがて三本が消えて一本になった。
後年 京成の線路が煙突を中心に円を描き
見る角度によって重なる事を知った
30年代も近づくと上野駅の戦災孤児はいなかったが成田市の自宅の隣りが
〇〇学園といって戦災孤児の収容施設だった。
貧乏だったが両親そろった私は学園を遠巻きに通った。
昨夜の戦災孤児の特集は興味深かった。
その私も人生の終盤を迎えている、孤児たちもみんな年上
文献はあっても「体験者」はいなくなってきている。
祖父も両親も他界 学園の様子を聞きたいと思ったがもう遅い。
チューブをみていたら古い映画に「煙突の見える〇〇」と
今はもうない「お化け煙突」が映っていた。
たしか「青砥」とか言う地名だった
いまも京成に在るだろうか

posted by 花蓮 at 09:24| Comment(0) | 日記