2015年08月18日

妻と飛んだ特攻兵 (2)


十年程まえ 松花江の対岸にあった通河村へ

行くには渡し船だった

五月 ある結婚者を連れて通河村へ行った

ところが河の結氷が溶けて流れ始め

渡し船が欠航になっていた。

冬はトラックが渡れる厚い氷

今は1分で渡れる立派な橋ができた

ハルピンから北のジャムス方面に行く

鉄道があったのだろうか

ドラマでは通河駅まで逃げろと言っていた

十年前 そこまで興味が広がっていない

私は通河村の探訪はしないままで終わった

もし私が昨日ブログに載せた女性と

結婚していれば、

通河村が嫁の実家になって

満洲の深部に迷い込んでいただろう

しかし 満洲国は滅びたのだ

わたしひとりが感傷に浸ってウロツクのは空しい

大虎山飛行場で司令官は

11機の特攻機を「錦州」 飛行場に輸送して

そこでソ連軍に引き渡せ、そして捕虜になれと

命令した。

しかしソ連は条約を無視して

殺戮を止めない、このままでは開拓民は殺される

軍規違反だけど、天皇のポツダム宣言受諾に

反して八月19日に特攻を続行する決意を

11人の将校はしたのである。

ソ連軍の戦車は装甲が厚く、日本の野砲50ミリ弾は跳ね返す

そこで飛行機ごと戦車に体当たりすると言うのである

1000両近いソ連の戦車

そこに11機の特攻

とても防げるものではない

「錦州」でソ連に飛行機を引き渡せと言う命令

私は「錦州」を知っていた

何べんも日本領事館のある「瀋陽」 満洲国時代の「奉天」

に行った事がある

夜のハルピン駅 瀋陽に行くのに

「錦州」行きの夜行に乗った

「にしき」の州・美しい名前

何処だろう

帰ってから地図を調べた

瀋陽を過ぎると列車は遼東半島に入って行く

その先は大連港

だが北京方面に行く鉄路が半島入口で分れる

爆発事故があったばかりの天津がある

満洲国と中国の国境線

ここは清朝の昔から万里の長城が海岸線に

到達して「関内」と「関外」を分けていた

<満洲は中国では無かった>のだ

満洲は漢族は少なく、モンゴル族、

朝鮮族、満洲族、樺太アイヌ族などが

混在していた。

明朝では 完全に行政区外だった

万里の長城の外の東北の満洲原野に

住んで居た満洲族が長城を越えて

中国に攻め入った

満洲語を話す満族が北京を占領して

300年、漢族に文化的に取り込まれて

満語を捨て去ったのだ

ハルピン、ジャムス、チチハルなどは

満洲語

その満・漢 国境に「錦州」はある

錦州は満洲鉄道の終点だった

その先は天津、北京

ソ連軍は満洲国を占領するつもり

次の駅は 

中華民国領 だったのだ

この領土の理解が無いと

国民党軍、共産軍、ソ連軍

日本軍の行動が分らない。

満洲国のドンずまりで 

飛行機を引き渡そうとしたのだ

そして国民党側に

逃げ込めば 内地に帰れたかもしれない

しかしどさくさに そこまで考えられただろうか

露助に渡したくない

この一心だったろう

錦州には行かず

11機は北のソ連戦車に特攻した

 そのうちの一人は

妻を乗せて 露助に体当たりした

妻役の堀北では線が細すぎる

尾野真知子なら もっとリアルになったろう

 日本人で良かった 困難に耐える民族

posted by 花蓮 at 06:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年08月17日

妻と飛んだ特攻兵


<昔はいた こんな美人が・ 通河村の・ひと>

終戦より後 特攻があった

8月15日 沖縄手前の岩に

特攻機が墜落したのは知っていた

操縦士は天皇の詔勅を知っていて

上官の宇垣の命令に悩んで、自ら墜落を

選んだ

後部座席の特攻命令者は宇垣中将だ

(余談だが、彼は山本元帥がブーゲンビル島で

撃墜された時、二番機に乗っていて負傷した聯合艦隊総参謀。)

しかし 8月19日 満洲でソ連戦車に11機もの特攻

があったのは全く知らなかった

これは特別記憶すべき事実だ

満洲・ 多分 <方正県の北> 大虎山飛行場

昨日ドラマで通河県と言う地名を喋っていた

この通河(つうか)と言う村は

国際結婚に良く出て来る

過去何万の花嫁を排出した<方正村>の隣りだ

方正村から15分くらい西に一本道を行くと

大河アムール川の支流「松花江」にぶち当たる

ハルピンの街を流れる「松花江」の下流だ

余談だが松花江はやがて樺太の真宮海峡

に流れ込む。

100年まえ 日本海からハルピンまで

海運があったのだ

ハルピンは満洲語で「魚干場」を意味し

海と繋がった内陸貿易港だった

この事実は驚愕だった

だれも知らない

ハルピン一番の繁華街「中央大街」

その150年前の石畳は

今は防洪広場になっている

船着き場」へ行く「馬車道」だった

横浜の「馬車道」と同じ由来

70センチもの長さの石棒を埋め込み

馬車荷重に耐えられる石畳だ

露助が作った頑丈な道

話しがだいぶ横にそれた

通河村に 

「特 特の」美人が居た

私は妻に会う前だった

一目惚れした

この話は「特攻」には関係ないので

後日にゆずる。

通河村は松花江の対岸にあった

方正村から目と鼻の先だ

昨日のドラマで出た地名

原作はノンフィクションで出版

アマゾンで今朝注文

 (明日に続く)

posted by 花蓮 at 07:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年08月16日

宝田 明 ハルピンの終戦後

  <ハルピン ロシア教会>

 

昨日 一番印象深かかったテレビは

「宝田 明」が生まれ育ったハルピンを

訪れた番組だ

日輪の遺産の続編を書こうと

思ったけど、急に興味が失せてしまった

圧倒的に 宝田の経験が私を占領した

それが ハルピンだったせいもある。

私の人生の後半

五十代になってから ハルピンに

急に行く事になった

それまで満州がどこにあるか知らない

新潟から飛行機便があったのだ

十数年前

私の会社でアルバイトしていた

新潟大学の学生

彼の父はハルピン師範大學の

有名日本語教授だった

「社長 結婚相談所をやりませんか」

と彼は聞いた

数日ご女の写真を持ってきた

「私の元指導教授が内職で

女性紹介をやっています」

「社長をハルピンに招待するそうです」

「無料でハルピンに行けるの」

「行くよ 行くよ」

私は二つ返事

ここから 満洲への道がついた

思いも掛けない 人生の展開

十五年前

大きいけど薄暗い ハルピン空港に着いた

その時は まだ 「満洲の何たるか」の

知識も 全く無かった

教授は空港に居た

日本語科なので 全くよどみが無い

完璧な日本語

ハルピン駅広場を見下ろすホテル

当時はまだ中国が貧しかった

マイクロバスに何十人も

女性が乗って私に会いに来た

夢のような時代

今は応募する女性も数少ない

当時は二十代がわんさか

 宝田 明は 昨日数局に出て居た

カメラはハルピンの街を歩く

宝田が住んでいた 「満鉄社宅」を写す

どこだか分らない

ロシアの聖ソフィア寺院は分る

宝田明が八月20日頃

ハルピンに侵攻して来たソ連軍の

暴虐ぶりを語る

日本兵がソ連に連れ去られる駅を見に行ったら

日本人が来るなと手で合図する

当時10歳の宝田目がけてソ連兵が

銃を撃つ

腹に痛みを感じながら家にたどり着く

鉛弾が当たり

翌日から膿で腫れる

鋏で切るとどっと出る

それから70年

幼馴染の中国人の女の子のアパートを訪ねる

勿論その子はお婆さんになっている

宝田はおばあさんの頬を両手で撫でる

中国語で何か言っている

「あなたは昔から ハンサムだった」

ベッドに横たわった人は言う

中国・日本の壁を越えた 情愛が胸を打った

今はハルピンにいる妻ちゃんを思う

私は満洲と関係が深くなってしまった

満洲〜

満洲クーニャン

 

 

posted by 花蓮 at 07:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記