2013年08月30日

鎌倉物語 第2章 昭和のいしぶみ(9) 朝比奈澄夫

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      <鎌倉切通し>

そして息子の澄夫がいつかは帰らぬ身になる事を覚悟していた。

鶴岡八幡宮の右手の山を登ると「朝比奈切通し」と言って

府中へ続く街道が伸びていたが、これは鎌倉時代

朝比奈の先祖が山を削って作った道であった。

山本五十六が次官として数代の海軍大臣に仕え

昭和16年いよいよ山本の現場復帰が決まった。

聯合艦隊司令長官というポストだった。

一説には陸上に置いたのではいつ右翼に命を狙われる

危険があるかもしれないと海軍大臣米内光正が

心配したからだと言われている。

五十六は鎌倉を去る事になった。

東京へ出発する列車は鎌倉を出るとすぐ北鎌倉

山が迫って小袋切通しの跡だ

五十六は息子義正と共に 円覚寺の山門の

向って手を合わせた。

祈りが終わるとその目はすでに太平洋を

見据えている武人の目だった。

鎌倉よ さらば  五十六はつぶやいた。

キツネは円覚寺の山から汽車を見送った。

この数年後 最後の仕上げがある事を秘めながら・・・・

聯合艦隊は鹿児島の錦江湾をパールハーバーに見立てて

連日猛訓練を重ねていた。

朝比奈澄夫もこの訓練に参加していた

敵艦の対空砲火を避けるために

高高度で敵艦上空に行き急降下するのである。

3千メートルの上空から見ると戦艦はまるで

一枚の竹の葉のようだった。

その上に下りるのは至難の技だ

急降下では時速700キロに達するのだ

澄夫の同僚では上昇柁を引くのが遅すぎ

そのまま海面に激突するものたちもいて

開戦前の事故死と扱われた。

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2013年08月29日

鎌倉物語 第2章 昭和のいしぶみ(8) 朝比奈澄夫

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チェストー!!

薩摩武士の切り込みの掛け声である。

刀が五十六の肩を袈裟懸けに切ったと思った瞬間

中辻の目の前を白いケモノのようなものが飛んだ。

と同時に目の中を鋭い爪がえぐった。

真っ暗になり、鮮血が噴き出した。

五十六は後ろから誰かが走り寄る危険を感じ

わずかに振り返ると抜刀した男と左側からケモノのようなものが

飛んだのを見た。

男の顔面から血が飛び散り刀を落とした。

大丈夫ですか」

お怪我はありませんか

山本は答えた

ああ 大丈夫だ」

純白の第二種軍装を身に着けた若い海軍士官が

駆けつけた

こいつをひっ捕らえて 警察に突き出します」

ありがとう 海軍省の山本五十六です」

閣下のお名前は伺っております」

私は横須賀海軍航空隊の朝比奈澄夫少尉です

朝比奈は気持ちの入った敬礼をした

それに山本も返した

鎌倉キツネは役目を果たして

松林の中で見守っていた。

そこは平成のカプリチオ―ザがある辺りだった。

朝比奈少尉は実家が鎌倉なので帰省していた。

山本五十六が海軍次官になって

日米開戦の回避に努力してしている事は

海軍内部に漏れ伝わっていた。

実家は雪の下で祖父の代から鶴岡八幡宮の氏子だった。

父は帝大の物理の教授 反戦論者で山本の考えに

同調していたけれど、今のご時世ひっそりしていた。

しかし国民一般の愛国心は持っていて

澄夫が戦闘機乗りという事を誇りにしていた。

posted by 花蓮 at 08:33 | TrackBack(0) | 考えること

2013年08月28日

鎌倉物語 第2章 昭和のいしぶみ(7) 朝比奈澄夫

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ある日 五十六は綿麻の浴衣を着て愛用のステッキを

持って自宅から滑川を渡り、若宮大路の方に歩いて行った。

昭和初期 若宮大路と横須賀線が交差する辺りは

松林で人家もまばらだった。

巣鴨の裏店に鹿児島出身で国士舘を中退

した中辻源一郎という男が住んでいた。

中辻は満洲を放浪して馬賊の伊達準之助の下に

一寸居たりして食い詰めて日本に帰ってきた。

今は右翼の大物 井上日昭に心服していた。

日昭は「一人一殺」で財閥総帥 団琢磨を刺殺した

団体を主宰していた。

中辻はこの右翼思想にかぶれて

五十六の日米開戦反対論に憤慨していた。

五十六の見識は当時の軍部の中では

飛び抜けて広かった。

彼は滞米中ワシントンからロスまで飛んで

サンジェゴの海軍基地を訪問した事があった。

何時間飛んでも西海岸に着かない広さや

鉄の生産力違いも良く知っていた。

だから日米開戦など全く話にならないと思っていた。

ところが満洲の何処までも続く平原には

無敵を過信する帝国陸軍がいた。

東京の参謀本部から独立するような勢いをもっていて

もと憲兵隊の甘粕大尉も満洲映画社の社長に収まって

若い将校達の精神的支えになっていた。

こんな昭和の雰囲気を中辻源一朗は吸って

五十六憎しと命を狙っていた。

中辻は薩摩の示現流という剣法を学んでいた。

示現流は薩摩独特の剣術で、自分を守る防御の型が

無く 只ひたすらに打ち込むのである。

戊申戦争では千葉道場の相当な使い手が

示現流に切られているのだ。

五十六があと少しで若宮大路に出る前で

中辻は五十六目がけて 走って行った。

二尺五寸の仕込み杖を抜き放って、

八双に構えて 

たッたッたッーと 背後から駆け寄った。

posted by 花蓮 at 09:14 | TrackBack(0) | 考えること