<鎌倉切通し>
そして息子の澄夫がいつかは帰らぬ身になる事を覚悟していた。
鶴岡八幡宮の右手の山を登ると「朝比奈切通し」と言って
府中へ続く街道が伸びていたが、これは鎌倉時代
朝比奈の先祖が山を削って作った道であった。
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山本五十六が次官として数代の海軍大臣に仕え
昭和16年いよいよ山本の現場復帰が決まった。
聯合艦隊司令長官というポストだった。
一説には陸上に置いたのではいつ右翼に命を狙われる
危険があるかもしれないと海軍大臣米内光正が
心配したからだと言われている。
五十六は鎌倉を去る事になった。
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東京へ出発する列車は鎌倉を出るとすぐ北鎌倉
山が迫って小袋切通しの跡だ
五十六は息子義正と共に 円覚寺の山門の
向って手を合わせた。
祈りが終わるとその目はすでに太平洋を
見据えている武人の目だった。
「鎌倉よ さらば」 五十六はつぶやいた。
キツネは円覚寺の山から汽車を見送った。
この数年後 最後の仕上げがある事を秘めながら・・・・
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聯合艦隊は鹿児島の錦江湾をパールハーバーに見立てて
連日猛訓練を重ねていた。
朝比奈澄夫もこの訓練に参加していた
敵艦の対空砲火を避けるために
高高度で敵艦上空に行き急降下するのである。
3千メートルの上空から見ると戦艦はまるで
一枚の竹の葉のようだった。
その上に下りるのは至難の技だ
急降下では時速700キロに達するのだ
澄夫の同僚では上昇柁を引くのが遅すぎ
そのまま海面に激突するものたちもいて
開戦前の事故死と扱われた。