2009年12月30日

広瀬武夫

Dsc05637 <203高地みやげ物屋の老人に敬意表して買った旅順写真集・この湾の入り口で広瀬中佐は亡くなった>

Dsc05638 <写真集の中にある203高地慰霊塔・砲弾残骸を集めて建立 乃木大将が爾霊山(にれいさん・203)と書いた・203高地頂上に乃木保典(乃木大将次男)戦死の地と看板があった 中国政府も粋な事をするものである

12月30日 筆は思わぬ方向に行くものです。
昨日の最後で突然「広瀬武夫中佐」の事を書いてしまったら、まだ書き足らないのという
想いが昨晩から朝になっても残っています。
広瀬少佐は (この少佐・少尉という日本語は奉行・与力などと同じ過去の言葉になって
います 今の日本は1佐・2尉 「
え〜さ え〜さホイさっさ」 などとアホみたいな
誇りをむしり取られた呼称になっています、そのくせ新聞は「カダフィ大佐」「ガガリーン少佐」などと存在しない訳語を使用しています。 ガガーリン馬廻役などと書いたらおかしいでしょう・それはいつも彼らがいう旧日本軍の呼称ですぞ)

ロシアに留学したエリートです。 旅順港の閉塞作戦はボロ貨物船を狭い湾
の入り口まで航行し、自沈して小さな哨戒艇に乗り移り帰還するという「ほぼ死にに行く」
任務です。 旅順要塞は入り口の「虎口湾」の両岸に高性能砲台があったので、

近づくさえ死地に行くようなものでした。
なぜ 広瀬中佐なら「戦艦」に乗り後方におられる身分なのに志願したかです。
<ここの彼の「気分」>を司馬先生は描いておいられませんが 平成日本と隔絶した
「明治の気分」なのでしょう。 国費で6年ロシアに留学、
コバレフスカヤが一目ぼれ
するほどの気性の「日本男児」だったのでしょう。 男たい
ちなみに森林太郎(鴎外)もドイツ女性が惚れて日本に来ている。
お国に恩を返すのはこのときと「死を賭した使命」を買って出たのです。
中佐の死を知って コバレフスカヤは泣き暮らしたそうです。

もはや海軍での出世もくそも無い 日本を勝利に導きたい「その一心」だったのです。

明治はこんな事がいっぱいあった 司馬先生は丹念に史実を集め「坂の上の雲」に
なさった。 
こんな人たちが生きていた そしてそれは今に繋がっていると先生がお書きになりたかった。
先生の名を使わなければ
「アヒルが鳴いて」NHKは取り上げられない 
そしたら国民
は忘れ去ってしまうのです。
明治は我々から「断絶」していません そんな祖父が生きていたのです。
ちなみに司馬先生は満州の戦車隊 それは秋山好古が創設した騎馬隊が発展的に
機械化したものです。
大正昭和はこのこの明治の男たちの気風を食いつぶしていった。
そして全ての男の気概をアメリカに拭い去れてしまい 「パパ(あめりか) おしっこ
などという 悲しい悲しい男達に成り下がってしまった。
アヒル女とガマが毎日テレビに写って「
命 いのち 大切に」などと言っている。
広瀬さんが見たら ニタリと笑って 一顧だにしないでしょう。
ティッシュにもならない

〜〜旅順港外 恨みぞ深き 軍神広瀬と その名残れど〜〜
「広瀬中佐」歌詞の名句です。
死ぬまでに大分竹田の広瀬神社に御参りしたい
私は中国妻に日本の男でありたい でも軟弱さにはがゆい
7年前 旅順に行って初めて気が付いた「明治」に 遅すぎた 畜生畜生 アホな俺よ
文部省め あめりかメ 私は残り少ない 青年のみなさん 明治を知ってください
今は自分の要求ばかり くれ くれ 出せ  明治は自分のせいと思った「私がやる」だった
一番美しいことば 「祖国」 「そこく」 「祖国」 国に求めるな 自分がやる

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posted by 花蓮 at 08:52 | TrackBack(0) | 考えること

2009年12月29日

年末に思う「三国志」

2 <三国志 諸葛孔明>

Dsc05636 <河南省安陽市>

昨日の新聞に<三国志 魏の曹操>の墓が発見されたと載っていました
場所は河南省安陽市安陽県安豊郷とあります。
私の部屋の貼ってあるプラスティック製の凹凸のある地図で見ました。
<白い矢印>が安陽市です。
春秋戦国時代を統一した「秦」「漢」が滅び、三国時代になっていきます。
「魏」「呉」「蜀」の三国です。
時代は2〜3世紀 魏誌「倭人伝」には卑弥呼が載っている頃です。
黄河が狭い峡谷を抜け広い河南平野に出る辺です。
写真の「赤い矢印」は後の「長安」 現在の西安です。
諸葛孔明は現代流に解釈すれば「霊能力者」です。 彼は精一杯の予知能力を使って
劉備を支えたけれど「定命」(定まった運命)には逆らえなかったのでしょう。
天国に行って「ああ 疲れた」と言ったのではないでしょうか。
五丈原の最後戦いで「死せる孔明 生ける仲達を走らす」と奇計でしのぎましたが
崩れ行く運命に痛々しいですね。
私の凸凹プラスティック地図を見ていると、紙の地図で判らない地形が良く見えてきます。
魏の曹操の方が平地を押さえ、農業生産力が高く従って人口と兵の動員力の多いのが
が判ります。 その魏でさえ三脚の一つ「蜀」が無くなり倒れてしまうのです。
曹操さんも「ああ 疲れたと天国で言ったでしょう。

7年前の1月5日私は旅順203高地に居ました。寒風が吹き観光客は一人も無く、
土産物屋の人民服を着た老人が手招きをします。老人はおもむろに「日本語」で
聞きました。「
今日は 何の日か知ってますか?」 分かりません
今日は 乃木将軍とステッセル将軍が水師営で降伏会見した日ですぞ」
不覚にも中国人に教えてもらい、水を浴びせ掛けられたような悔悟と屈辱でした。
畜生 畜生 ちくしょう 俺は日本人としての「常識」に欠けていた なさけなや 恥ずかしや
S22年生まれ 知らなかった 文部省の馬鹿め あめりかメ あほな俺め
「水師営の歌」 戦前はだれでも知っていた常識。 <明治38年1月5日> 

〜〜乃木大将はおごそかに み恵み深き 大君(おおきみ)の おお詔(みことのり)
   伝えれば 彼かしこみて 謝しまつる〜〜
 (ステッセルが明治帝の詔勅を受けとる状況)

http://www.youtube.com/watch?v=WVVS56hWx30 (水師営の会見)
http://www.youtube.com/watch?v=gygW6RYROhg (水師営の会見改定版)のほうが良い

http://www.youtube.com/watch?v=RlWMfRydU28  (広瀬中佐)
坂の上の雲で秋山真之(本木雅弘)の親友でロシアに留学した広瀬武雄中佐(藤本隆宏)は
旅順港の細い海峡に貨物船を沈めて、ロシアの艦隊が出られないようにする「閉塞作戦」
で、部下の杉野曹長を探しに戻り戦死。明治から昭和20年まで東京万世橋駅前に
中佐の銅像があった。アメリカに破壊された。ロシア海軍コバレフスキー少将の娘アリアズナ・ウラジーミーロバナ・コバレフスカヤと恋仲であったとNHKTV出てくる。
現在のハルピンは帝政ロシア崩壊後、亡命ロシア人が多く住んだ(余談)

Photo

<広瀬中佐・

posted by 花蓮 at 08:11 | TrackBack(0) | 日々の出来事

2009年12月27日

年末カレンダー

1 <’10 カレンダーガール>

2

今年もあと四日になりましたね。
このブログを読んで下さっているのは、どうも結婚に関係が無い<良質?な方々>のような
気がします。
いつも140人くらいの方です。 ありがとうございます。
張り合いを持って書いています。 
蒲郡のM君、山形のK子さん、福岡のMさん、東京のFさん神奈川のFさん
そして私が知らない135人の皆さんありがとうございます。
来年はどんな年になるのでしょうか
さっき中国から久しぶりにコメントを書きたいような女性の写真が送られてきました。
HPに載せるのは手続きが面倒なので、ブログで一足先にカレンダー(花蓮だー)
代わりに公開です。
仕事なのででよ〜く眺めていると、妻は機嫌が悪いのです。
私はキャバレーの呼び込みが似合っているようです
そこの旦那 いいコが居まっせ

古い奥さんをお持ちの方々 ハンカチかぶせりゃ 皆同じ 
「痛て!」

posted by 花蓮 at 18:47 | TrackBack(0) | 日々の出来事