2018年11月16日

 大仏さまは見ていた(3)

鎌倉幕府滅亡から二百年 今夜も月が明るく照らす
大仏さまは新しい客を迎えていた
それは越後の武将上杉謙信であった。
今日の昼 鶴岡八幡宮で二万の軍勢の
観兵式(馬ぞろえ)を行った。
越後兵一万、関東の地侍一万であった。
信仰厚い謙信は夜になって、露座になった大仏さまを
拝みに来た
極楽寺の切通しから越後兵のうち「柿崎盛頭」を小田原城に
先行させた。
そののち一ヶ月 謙信は小田原城を囲んだが落城しないので
越後に引き上げた。
posted by 花蓮 at 02:41| Comment(0) | 日記

 大仏さまは見ていた (2)

1333年5月20日 この日が鎌倉幕府最後の日だった。
蒸し暑い日で朝から雨が降っていた。
 与沙と真琴の一粒種は立派に成人し、最後の執権北条高時の
 子飼いの郎党になっていた。
 三浦氏の生き残りの家系を相続し三浦与輔と名乗っている。
 与輔にも鎌倉が今日しか持ちこたえられないと分っていた。
 化粧坂の木戸を守っていたが、極楽寺の木戸の守備兵と化粧坂の守備兵
 で大仏の寺で稲村ヶ崎の残兵も合わせて最後の防衛陣を敷くことになった。
 化粧坂とは今の鎌倉市役所の辺りあった藤沢方面に抜ける道で此処の木戸
 も一週間持ちこたえた。
 稲村ヶ崎から新田軍が鎌倉に侵入しているので、もはや木戸を守る
 必要がなくなっていた。
 三百の鎌倉兵が大仏を中心に円陣を組んだ。
 与補は子供の時から見慣れている大仏さまが折からの雨で
 まるで涙を流しておられるように見えた。
 円陣の中で「大仏さま さようなら」と言った。
 新田軍の弓矢が梅雨の雨と同じように降り注いだ。
 あっという間に残り百人ほどになった。
 一本の矢が与補の胴巻きを貫き右胸に刺さった。
 千人もの新田軍が薙刀と刀で襲い掛かってきた
 兜の八がねに薙刀が喰い込んだ
 与補は深い海の底に引き込まれるように五感が薄れていった。
 今生の最後だった。
大仏さまの目から限りなく涙が落ちた。

 
 
posted by 花蓮 at 01:07| Comment(0) | 日記

2018年11月13日

 大仏殿流失 大津波

鎌倉大仏 私達は露座を見慣れている。 
しかし建立当時は大仏殿があった。
その痕跡が大仏の周りにある。 六個の台座石が今でも残っている。
建立からまだ百年も経たない貞観四年、由比ヶ浜の沖は暗く
雨雲が垂れこめ、ゴーゴーと不気味な音をたてていた。
加治職人の与沙は極楽寺の高台から海を見た。
「真琴 おらちょっと大仏様見てくら」妻の真琴とは去年
祝言をあげたばかりだ。
丘を下ると極楽寺の切通し道に出る、その道は七里ヶ浜に繋がっていた。
Kい海水が山門の柱を濡らし始めた。やがて海水は大仏さまの台座まで
届いた。いったん引いた水は今度は勢いを増して押し寄せてた。
先ず大仏殿の開き戸がはずれて化粧坂の方へ流れて行った。
すると正面の柱がミリミリと傾き始めた、屋根瓦が滝のように落ちてきた
「与沙」はあわてて大仏さまの肩までよじ登った。
そのころには六本の柱はみんな流されて鶴岡八幡の方に見えなくなった。
いったん海水は引き始め問注所の方を眺めると鎌倉幕府の主要な建物は
ひとつもなかった。
執権さまはどうなったろう、昨年末刀の註文をくだすった、執権屋敷の裏長屋の
白拍子見習いの「春ひ」はどうなったろう、
一昨年 執権さまの帰りに肌を交わしあったあいだがらだ。
其の日の夕方 泥だらけの鎌倉は動き始めてていた
執権さまをはじめ、「春ひ」も八幡の山に避難して無事だった。
    (続く) (白拍子)踊りを生業とする、宴席にはべって
              性の相手もする。
posted by 花蓮 at 08:29| Comment(0) | 日記